礼拝
友納 靖史
常盤台バプテスト教会 2021.5.30 主日礼拝「毎日注がれる復活の力」 渡部 信 牧師 【使徒言行録1章 3~5節 / ローマの信徒への手紙 8章 9~11節 18節~25節】
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 626番 主はいのちを与えませり 1、2節
聖書 使徒言行録1章3~5節
ローマの信徒への手紙8章9~11節、18~25節
特別賛美 "うるわしき聖霊" 奏楽者
宣教 「毎日注がれる復活の力」 渡部信牧師
祈祷
賛美 262番 み霊よくだりて 1、2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- さて、先週は教会の暦で、聖霊降臨祭、別名ペンテコステの日曜日でした。
主イエスを「キリスト」と信じるお弟子さんたち120名の者たちが一同に集まり、10日間祈り続けますと、舌の形をした神の霊が臨み、彼らはその霊に満たされ、大きな神の力を受けて主イエス・キリストの福音を大胆に民衆に宣べ伝えました。そうしますと、彼らの心の内にある罪が、暴かれ、深く責められ、悔い改めて主キリストを信じる者が一日で三千人にも達したと記されています。
このようにペンテコステの神の霊に満ちた言葉は、まさに神の霊の剣です。舌の形をした神の霊はまるで生きた生き物のように私たちの心を刺し通し、いかなる剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまで人の思いや考えをも見分け、すべてのものを神の前にあらわにされる。すべては神の前では裸であり、その神の問いに誰も逃れることはできません。それゆえこの御言葉を耳にした民衆は、心に恐れを生じて自らの罪を深く自覚し、悔い改めに至りました。
神は愛の方ですが、同時に聖なる方です。何でも愛のゆえに一緒にすることはできません。聖なる神と私たちとの関係は油と水のごとく相容れません。ただキリストの贖いによってのみ、その罪を認めて深く悔い改め神と和解をし、初めて神の恵みの救いに与るのです。
今まで罪の支配のもとで苦しんでいて死んだような人々が、この神の霊を受けると神の命に生き返える。これが本当の復活、リバイバルです。そして新しく生まれ変わった人は、その霊の力によって毎日成長を歩み始めます。
ヨハネ福音書には、お読みになった方が誰でも知っている物語、マルタ、マリアの弟ラザロが瀕死の病気にかかり、なくなってしまったので、マリアは言いました。イエス様がもっと早く来てくださったなら、ラザロは死ななかったのに。それに対してイエスは「この私こそ復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きます。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはありません。これをあなたは信じるか」と語り、ラザロを甦らされました。復活は死んでいる者が甦るのです。そしてたとえ肉体が滅びてもその人は永遠に生きるのです。
使徒パウロはこの復活の力を、ローマ書でこのように述べています。「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は、肉ではなく、霊の支配下にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなた方の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。もしイエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
つまり、私たちは罪の故に神の栄光を顕すことができず、この肉体も死へ向かっていました。けれどもイエスを死者の中から復活させた方が、この死ぬべき罪の体さえも生かしてくださるというのですから、私たちの肉体は神の栄光を顕す器として贖われて行くのですと。「私たちには、一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなた方は生きます」つまり、復活の霊は、死ぬべき肉体も生かすと言っている。キリストの霊が毎日注がれることによって、贖われ被造物そのものが神の子へと造り上げられて行くのです。。
地上にいる間、内側に神の霊があれば、肉の生活はどうでもよいということにはならない。私たちはなぜ、肉体を持って生まれたのですか。それは神の栄光を顕し、神の御名を称え、その栄光を神に帰するための器として生まれ出て来ました。復活の力の注ぎは、私たちの肉の体の中で贖われて行く過程となるのです。時々、クリスチャンでさえ、この世の肉体を持っている人生の目的が判らなくなるときがある。神の霊だけに閉じこもったり、死んだ後の天国ばかり夢みたり。罪からの救いは、キリストの復活の力によって滅ぶべき運命であった肉の生活も贖い、復活の体へと変えられ、被造物における神の栄光への賛美として、私たちの肉における人生の目的があるのです。